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ラタン・シング (メーワール王) : ミニ英和和英辞書
ラタン・シング (メーワール王)[おう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

ラタン・シング (メーワール王) : ウィキペディア日本語版
ラタン・シング (メーワール王)[おう]

ラタン・シング(Ratan Singh, 生年不詳 - 1303年)は、北インドラージャスターン地方メーワール王国の君主(在位:1302年 - 1303年)。
==生涯==
1303年デリーハルジー朝に首都チットールガルが包囲され、ラタン・シングはチットールガル城に籠城した〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.96〕〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.43〕。その原因はその君主アラー・ウッディーン・ハルジーグジャラートに侵攻する際、メーワール王国内の通過を拒否したことにあった〔。また、メーワールはアジュメールからマールワーに至る道を支配していた〔。
また、アラー・ウッディーンがラタン・シングの王妃パドミニーに大変愛着を抱き、横恋慕しようとしたとも伝えられる〔。パドミニーはシンガルドゥウィーパ(スリランカ)の王女で、ラタン・シングは7つの海を渡り、多くの冒険を重ねてチットールガルへと戻ったという。ただし、これは100年以上たってから語られ始めたので、歴史家たちはこれを単なる伝説と見ている〔。
包囲はこの年の1月から8月まで続き〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.43〕、ハルジー朝の軍勢は城に激しい攻撃をかけた〔。その間、ラタン・シングは講和を求めて降伏したが、傍系のラクシュマン・シングをリーダーに籠城して抵抗を続けた〔。結局、城兵はジャウハルを行い、多数の兵が戦死し、チットールガルは陥落した〔〔。
ラタン・シングは生け捕りにされ、その後しばらくのうちは捕虜となっていたとされる〔。一方、チットールガルの支配はアラー・ウッディーンの幼い長男ヒズル・ハーンに委ねられ〔〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.44〕、「ヒズラーバード」に改称されてしばらくの間デリー・スルターン朝の支配が続いた〔。この間、メーワール王国は一時中断したが、1326年頃に傍系シソーディヤー氏族ハンミーラがチットールガルを奪還し、再興された〔〔チョプラ『インド史』、p.100〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ラタン・シング (メーワール王)」の詳細全文を読む




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